Macファンの友だちがいる。
「どうしてそんなにMacがいいの?」
「だって、フォントがかわいいんだもん」
「そこっ?」とそのときは思ったのだが、実に「そこ」なのであった。
彼女とは官庁がらみのプロジェクトで出会った。
他のメンバーは全員Windowsなのに、彼女ひとりがMac。
ずいぶん前のことで、当時はMacとMicrosoft Officeの互換性がなく、チーム内のファイルのやりとりに支障をきたした。
「仕事なんだからさ、効率性も考えてくれないかな?」
リーダーがそう言っても、「うーん」と小首を傾げてやりすごし、決してMacを手放そうとしない。
ところが、である。
自ら手を挙げて作ったフライヤーを一目見て、驚いた。
温かみのあるテイストと独創的な配色が唯一無二で、とにかく垢ぬけているのだ。
デザイナーとして雇われたわけではなかったのに、惚れ惚れとするほどの出来栄えで、外注は速攻で見送られた。
こうしたデザイン性こそが、Appleの真骨頂。
彼女のようにアート志向の強い人がスタイリッシュなMacを使うのは当然のことだと、そのうち誰もが思うようになっていた。
道路標識
2011年3月、iPad2を発表したとき、スティーブ・ジョブズはその戦略をこう語った。
テクノロジーだけでは十分ではないというのがアップルのDNAだ。テクノロジーとリベラルアーツ、人文科学との融合こそが、私たちの心を謳わせることができるのだ。
療養中で登壇しないはずだったジョブズが、半年後に迫る死を意識してのプレゼンである。
背後には、「テクノロジー通り」と「リベラルアーツ通り」の交差点を示す道路標識が大写しになっていた。

出典:Dana Peters YouTube channel “Steve Jobs: Technology & Liberal Arts”
リベラルアーツは古代ギリシアで生まれ、やがて古代ローマに受け継がれた概念である。
中世ヨーロッパの初期の大学では、専門教育に進む前に、言語系3学(文法・論理・修辞)と数学系4学(算術・幾何・天文・音楽)で構成されるセブンリベラルアーツ(自由7課)を修める必要があった。
リベラルは「自由」を意味する。
その解釈には諸説あるが、「人間がさまざまな束縛から解放され自由に生きるための知識や教養」と考えたらどうだろう。
そのためには、理性を鍛えるだけでなく、感性を磨く必要がある。
「美しさ」の力
リベラルアーツに対するジョブズの信頼はどこからきているのだろう。
アメリカにはリベラルアーツ・カレッジと呼ばれる小規模な大学がある。少人数教育、幅広い分野の学習、クリティカルシンキングの重視を特徴とし、多角的な視点から問題を捉え、創造的な解決方法を見出す能力を養う。
彼はアメリカのリベラルアーツ・カレッジの1つ、リード・カレッジに入学したものの、1学期で退学してしまう。
ただ、その後もキャンパスに居すわり、学生寮の「床」をねぐらにして、興味のある授業をせっせと聴講していた。
その1つがカリグラフィー。アルファベットを美しく装飾的に書く伝統的な技法である。
当時のリード大学は国内最高峰のカリグラフィー教育が行われており、キャンパス内のポスターやラベルはすべて手書きの美しいカリグラフィーで飾られていた。
彼はその授業で、さまざまな書体やスペースの配置、優れたタイポグラフィの素晴らしさについて学ぶ。
タイポグラフィとは、簡単にいえば文字を読みやすく配置しデザインする技術である。
科学では捉えられない芸術的な繊細さがあり、その美しさがジョブズを魅了した。
そしてその学びはその後、思いがけない形で結実することになる。
2005年にスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチのなかで、ジョブズはリード大学での経験を振り返り、「点と点を結びつける(connecting the dots)」というコンセプトを語った。
当時全く役に立つとは思えなかったカリグラフィーの授業が、10年後、初代Macintoshの美しいタイポグラフィーにつながったことを明かし、予期せぬ出来事や経験が後の人生に重要な意味を持つことがあると述べたのだ。点と点がつながって線を描くように。
ちなみに、初代Macのシステムフォントはこんな感じ。
冒頭の「だって、フォントがかわいいんだもん」は、実にMacの本質を突く言葉だったのである。

出典:EC Conference Susan Kare, Iconographer(EG8)
トイレは1つ!
自らが招いたCEOとの対立からAppleを追われたジョブズは、その直後の1986年、ジョージ・ルーカスから小さなコンピュータメーカー、ピクサーを買収する。
コンピュータは売れなかったが、ピクサーはやがて映画史上最も成功したスタジオの1つとなった。
彼はどうやってそんな偉業を成し遂げたのだろう。
「トイレは1つ!」
これである。
いや、最終的には2つになったのだが、彼はそのことに強くこだわった。偶然の出会いがイノベーションを産み出すと信じていたからだ。
そのためにはピクサーの社屋をそういう建物にしなければならない。
ポイントは建物の中心に最も重要な機能、つまり社員が交流できるスペースを置くこと。それは風通しの良い吹き抜けの大広間、アトリウムだった。
正面のドアもメインの階段も通路もすべてがそこに通じている。
社員が自分のオフィスを出てそこに集い、そうでもしなければ出会わない人と出くわして「魔法」が起きる。
次は、その仕掛けをどうやって作るかだ。
ジョブズはまず郵便受けをアトリウムに移した。次に、会議室、カフェテリア、コーヒーバー、ギフトショップも。
しかし、それでもまだ十分ではなかった。
ついに、「トイレは1つだけ!アトリウムに!」と頑なに主張し出す。
それはいくらなんでも、やりすぎだ。妊娠中の社員だっているのに。
大騒動になった末、結局トイレは男女2セットにして、アトリウムの1階と2階に、それぞれ反対側になるよう配置することに落ち着いた。

出典:Inside Pixer | Official Trailer | Disney+(予告編動画)
「最高のアイデアはテクノロジーと人文科学の交差点から生まれる」
それが彼の信念だった。
たとえ利便性を犠牲にしてでも、異なる分野の人々がひとつにつながり、それぞれの世界の見方がひとつの問題に生かされたとき、最高の創造が生まれると信じていた。
ジョブズは後にこう語っている。
「ピクサーにおける最大の功績のひとつは、2つの文化を融合させ、共存させたことだ」
部分最適
アメリカから来た留学生に専攻を尋ねると、
「微生物と日本文化」
「ナノテクノロジーと東洋思想」
「情報工学と日本語」
そんな答えが返ってくる。
アメリカでは、複数の学問分野を専攻できるダブルメジャーは珍しいことではないという。
それに比べると、日本の教育は早い段階での文理選択を迫られ、明確に分化している。
ここで、文部科学統計要覧(令和6年版)をみてみよう。
国公立大学に在学している学部生の人数は、理系・文系で差があるのだろうか。
人文科学と社会科学はどちらもわずか1割強。対して理学と工学は4割前後、農学部45%、商船にいたっては100%となっている。
こうしたデータから、国家建設や産業振興のための自然科学系分野は国公立大学に、それ以外の分野は私立大学に、という偏りが見て取れる。
それはなぜだろう。
こうした理系偏重の背景には、産業構造と技術革新が深く関わっている。
1960年代以降の高度経済成長、1980年代の日米貿易摩擦を背景にした「科学技術立国」、1990年代以降の「科学技術基本計画」。
どの時期にも理系分野を後押しする状況があった。
理系分野は直接的に技術革新や産業発展につながりやすい。
経済成長や国際競争力向上といった目標を短期的に追求する場合、そうした理系分野への投資や人材育成が優先されるのは、自然の流れというものだろう。
そうした状況が、大学・大学院の定員設定や研究予算の配分にも影響を与えてきたのだ。
でもそれは、一部分だけを見て「ここが良くなれば全てうまくいく」と考えてしまう「部分最適」ではなかったのか。
今は環境・エネルギー問題などを通じて、科学技術と社会との関係を問い直す機運が高まってきていることを見逃すわけにはいかないだろう。
アンパンマンのマーチ
唐突だが、「なんのために生まれて」で始まるアンパンマンでおなじみのフレーズについてである。
誰でも一度はそんな疑問を抱いたことがあるのではないだろうか。
文学部で学ぶ事柄は、これらの「なぜ」「何のために」という問いに答える手がかりを様々に与えてくれるのです。いや、むしろ、問いを見いだし、それについて考える手がかりを与えてくれると言う方がよいでしょう。
(中略)
人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。
これは、2017年、大阪大学文学部長だった金水敏教授(当時)が卒業セレモニーの祝辞として述べた言葉である。
それは、「文系不要論」に対する回答であった。
その2年前、世間を騒がせるニュースが飛び込んできた。 なんと、文部科学省が国立大学の文系学部をなくそうとしているらしい、という新聞記事が出たのだ。
報道はどんどん過熱して、結構な騒ぎになった。
でも、「文系なんていらないんじゃない?」的な話が出たのは、実はこれが初めてではない。この手の議論はずいぶん前からくすぶっていたのだ。
文系は本当に不要なのだろうか。
もし有用だとしたら、それはなぜだろう。
そもそも文系の知とは何なのか。
文系の研究者はそんな疑問に真摯に答える必要があったのである。
ちゃうちゃうちゃうんちゃう?
ところで、私は今、金水先生の新刊を手にしている。
といっても、iPadで電子書籍を読んでいるのだが。
できたてのほやほやだ。
今日が発売日で、予約しておいたら、午前零時ちょうどにKindleに入ってきた。
実は大学院生時代に、先生の集中講義を1週間、受けたことがある。
もう30年も前のことで、先生は当時30代後半にして気鋭の文法学者、その講義は噂に違わずキレッキレだった。
その内容は今でもしっかり覚えている。
さて、新刊のタイトルは『大阪ことばの謎』。
大阪出身の先生が、大阪ことばを分析しているのだ。
その歴史や特徴、なぜ大阪ことばは愛されるのか、コテコテ大阪弁はまだ使われているのか、等々、読み出したら面白くてやめられない。
「ちゃうちゃうちゃうんちゃう?」が何かも、この本を読めばわかる。
(もしくは周りの大阪人に聞いてほしい。)
私がここで紹介したいのは、「あとがき」の一節だ。
すべての言語は尊くて貴重な、人類の財産であると思うのです。
(中略)
人によっては、言語は生活や金儲けのための単なる道具であり、それならばむしろ方言はなくてよい、少数言語などというものは滅びて当然、という意見も時々見受けられます。しかし、それは言語と文化、ひいては人間存在そのものに対する軽視であり、そのような世界の先に人の幸福はありえないということを警告するのが、人文学の責務の1つではないかと思ったりもします。
理系のような実利的な効用、即効性はないけれど、人が根源的な問いに目を向け、その問いに向き合おうとするとき、文系の学びはその思索の力となる。
ジョブズの言葉を繰り返そう
「最高のアイデアはテクノロジーと人文科学の交差点から生まれる」
これが、全体最適の解ではないだろうか。


