ミクロな世界を解き明かす 量子化学と暮らしのつながり

コラム

私たちの存在する世界には、数えきれないほどの「物質」が存在しています。

化学は、その物質を形づくる原子や分子の構造や性質を明らかにする学問です。
医薬品や洗剤、化学繊維なども、目には見えない物質の変化や、物質同士の化学反応といったミクロな世界の現象を研究し、開発されています。

では、その「見えない世界」にはどんなルールが存在しているのでしょうか。
そのルールを理論的に整理したものが「量子力学」です。
量子は、手を離したりんごが地面に落ちるように、私たちが常識で理解できるようなふるまいはしません。
空中で止まってしまうのか、あるいはそのまま地面を突き抜けてしまうのか、目に見える世界ではあり得ないと思うことも、量子の世界では起こり得るのです。

そして、この量子力学を化学の世界に応用し、化学現象を解き明かすのが「量子化学」です。
少し不思議で難しい量子のふるまいを利用する量子化学は、私たちの生活とどのように結びついているのでしょうか。

アインシュタインも困惑した量子の不思議な世界

量子とは、物質を形づくる極めて小さな粒子の総称です。

「小さい」と言っても、砂やほこりなど、肉眼で見えるレベルのものではありません。
たとえば、原子は髪の毛の太さのおよそ10万分の1ほどしかなく、その中にある電子や陽子、中性子といった粒子もすべて量子の世界の小さな粒の仲間です。
水素原子や酸素原子、それらが結びついたCO₂やH₂Oなどの分子も、量子のふるまいによって成り立っています。

量子は、「波」のようにうねうねと広がったり、「粒」のようにひとつひとつ存在したり、相反する二つの性質を併せ持っています。
波でもあり、粒でもある、直感では理解しがたい量子の特別な性質は、量子力学の基本となるものです。

量子の不思議なふるまいは、それだけではありません。
たとえば、コインを投げたら「表」か「裏」のどちらかが出る、それがマクロな世界での常識です。
コインがくるくると空中を舞っている様子をスローモーションにしたとしても、私たちは必ずどちらかの面が上を向いているはずだと考えます。
けれども、量子の世界ではそうはいきません。
観測されるまでは、「表」と「裏」が同時に重なった状態にあるとされており、これを「重ね合わせ」と呼びます。

量子力学に触れたことのない方も映画や小説などでたまに登場する「シュレディンガーの猫」という話は耳にしたことがあるかもしれません。
箱を開けるまで、猫が「生きている状態」と「死んでいる状態」が同時に存在しているという、あの奇妙な思考実験です。
これは、量子重ね合わせの性質とその不条理さを示すために、理論物理学者エルヴィン・シュレディンガーが、アインシュタインとの書簡による議論の末に考案したものです。
アインシュタインといえば、「量子力学は不完全な理論である」という立場を生涯貫いたことでも知られています。
それほどまでに、量子の世界は不可解で奇妙、そして難解であるといえます。

量子力学は、この不思議な量子の性質を数式や理論で説明する学問です。
スマートフォンやコンピュータに使われる半導体をはじめ、通信技術やレーザーなども、量子力学をもとにした技術です。
現代において、量子力学は私たちの生活に欠かせない存在となっています。

量子「力学」ならぬ量子「化学」とは?

物質の変化を扱う学問である化学は、分子の構造や化学反応の要因となる電子の挙動を理解することが重要な課題です。
19世紀、電子や光が関係する分子の挙動は、従来のニュートン力学だけでは説明できないと考えられるようになりました。
さまざまな研究が進み、原子や分子などのミクロな世界を理解するには、波でもあり粒子でもあるという特殊な性質を持つ量子の法則を理解すること、すなわち量子力学が不可欠であるという認識が広まったのです。

つまり、量子化学を端的に表現すると、「量子力学を使って化学現象を解明しよう」という化学の一分野です。
量子力学が、ミクロな世界の粒子のふるまいを定式化するものであるのに対して、量子化学はその法則を使って原子や分子の反応や構造を理論的に解析します。

化学と聞くと、フラスコやビーカーなどを使って、実験を通じて物質の変化を観測するイメージがあるかもしれません。
しかし、化学現象は実験では確かめられないものも少なくありません。
量子化学では実験ではなく、数式やコンピューターシミュレーションによって、物質の変化や反応を理論的に予測します。
たとえば、小学校の理科で習う植物の光合成も、実は非常に複雑な仕組みをしています。
しかし、量子力学を駆使して分子や電子の動きを解明できれば、光合成を人工的に模倣することも夢ではありません。

実験だけでは観測できない領域を扱う量子化学は、材料開発や創薬にもつながる、私たちの未来を支える科学技術の土台となるものです。

研究開発の未来を拓く量子化学計算

量子化学の理論をコンピュータで数値的に解く手法を、「量子化学計算」と呼びます。
量子力学の基本方程式であるシュレディンガー方程式を、分子計算向けに簡略化した「分子軌道法」を用い、対象の分子内にある電子の状態を求めます。

近年では、計算機の性能向上によって、量子化学計算は研究者にとって身近なものになりつつあります。
計算コストは大きいものの、ある程度の計算であれば、研究室やオフィスにあるようなコンピュータでも実行することができます。
しかし、量子化学計算は特別な手法を用いない限り、計算時間は電子の数の3乗以上に比例して増加します。
つまり、膨大な分子量を持つ高分子に適用すると、それに比例して計算時間も増大し、実用的に解析するのが難しくなります。

量子化学計算の可能性を広げる挑戦として、スーパーコンピュータ「富岳」とIBMの量子コンピュータが連携し、大規模な量子化学計算をおこなう実証が進められています。
この実証では量子コンピュータの実機で計算した結果をスーパーコンピュータが処理することで、従来の古典計算機では解析が困難であった大規模な量子化学計算に取り組めることを証明しています。

量子コンピュータとスーパーコンピュータを連携させた量子化学計算
出所)理化学研究所「量子-スパコン連携による量子化学計算に成功」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj/57/1/57_87/_pdf

量子コンピュータ自体がまだ研究段階ではありますが、量子化学計算と組み合わせることで、材料開発や創薬などにおいて実用化への道筋が見えてきたと評価されています。

ほかにも、量子化学計算の手法自体の研究も進んでいます。
大阪大学では、フラグメント分子軌道(FMO)法という日本発の量子化学計算手法を用いた創薬開発の研究をおこなっています。
FMO法ではたんぱく質のような巨大な分子も、小さな断片フラグメントに分割し、それぞれの断片を個別に量子化学計算することができます。
そして、それらの計算結果を組み合わせることで、タンパク質と化合物の構造や相互作用を詳しく調べることができます。
この手法により、大規模な量子化学計算を世界トップレベルの速さと精度で実現することに成功しています。
この技術によって、新型コロナウイルスなどの感染症やがんの治療に役立つ抗体医薬品の設計や最適化が可能となります。

量子化学によって広がる私たちの世界

ただでさえ難解なイメージのある量子力学を応用した量子化学は、私たちの生活とはまるで縁のない、遠い存在のように感じられるかもしれません。
しかし、「目には見えない世界」のルールを使いこなす量子化学は、病気を治す画期的な薬や環境にやさしい新素材の開発など、私たちの暮らしに直結するイノベーションを生み出す可能性を秘めています。

そもそも私たちの体も小さな粒の集合体であり、生命の営みも化学反応の連続によって支えられています。
量子化学の進化によって、生命の根源に迫る手がかりを掴むことも可能になると考えられています。

見えない世界を探索し解明していく量子力学は、生命と科学、そして私たちの未来をつなぐ架け橋となるかもしれません。

石上 文
広島大学大学院工学研究科複雑システム工学専攻修士号取得。二児の母。電機メーカーでのエネルギーシステム開発を経て、現在はエネルギーや環境問題、育児などをテーマにライターとして活動中。