AI時代のライティングのあり方

コラム

生成AIはライティング分野に「知的生産のコストダウン」をもたらし、その結果「知識のコモディティ化」が進むのではないか。

面倒な議事録の作成、小難しいレポートの要約、困ったビジネスメールの返信など、生成AIは驚くべき速さで私たちの生活に溶け込みつつあります。

ほんの少し前には「こんなもの使えるか」と思っていたものが、今では十分使える水準に入ってきているのです。

しかも最近のAIは、画像や音楽、プログラムに動画まで、一言投げればあらゆるものが返ってきます。

かしこさを通り越して、恐ろしさを感じますね。

なかでも、現時点で私たちの仕事や生活に最も大きな変化をもたらしているのは、「書く(ライティング)」分野ではないでしょうか。

AIの知識や語彙力はすでに人を凌駕しており、執筆速度に至っては、もはや足元にも及びません。私がうーんと頭をひねっている間に、AIは10本くらい記事を書いてしまいます。加えて、AIは人間のように疲れませんし、モチベーションに左右されることもありません。

なのでライティングの分野において、AIが「決してさぼらない、足の速いウサギ」だとすれば、遅筆な人間は「すぐにさぼってしまう亀」と言えるかもしれません。

このままでは、ウサギと亀の差は開くばかりですね。

そこで今回は、遅筆な亀の一人として、AI時代の「書く」ことの価値について考えてみました。

AIライティング

生成AIを用いた文章作成を、AIライティングと言うそうです。

AIライティングの最大の魅力は、その圧倒的な「効率化」にあります。私たちが日常で「書く」作業、例えばビジネスメールの作成で考えてみましょう。

多くの場合、私たちは「どう書けば失礼がないか」「誤解なく伝わるか」といった構成や表現に悩み、思いのほか時間を浪費してしまいます。

読みやすい文章とは、ひどく書きにくいものなんです。

一方でAIは、この「悩む時間」そのものを劇的に削減します。一言お願いすれば、誤字や脱字、感情的ノイズがない、要領を得た文章が瞬時に生成されます。

あとは多少の指示を加えるだけで、誰でも「及第点」の文章を短時間で得られるのです。

知的生産コストの低下

こうしたAIライティングの本質は、「知的生産コスト」の低下にあります。

文章を作成する際に最もコストを要するプロセス、すなわち必要な情報を収集し、頭の中の曖昧なイメージを言語化し、論理を組み立てる。AIは、この一連の作業を削減できるのです。

もちろん完璧なクオリティとは言えないものの、少なくとも時間対効果という観点においては、もはや人間は歯が立ちません。

ライティング分野において、人類の知的生産は未だかつてない「コストダウン」を目の当たりにしているわけです。そして、こうした「知的生産のコストダウン」がもたらすのは、「知識のコモディティ化」ではないでしょうか。

例えば、世界経済フォーラムが発表した「Future of Jobs Report 2025」 によると、生成AI含む5つのマクロトレンドから、2030年までに1億7,000万人の新規雇用が創出される一方で、9,200万人の雇用が失われるとしています。

そして生成AIはデータ入力やカスタマーサポートだけでなく、ライティング系のクリエイティブ職にも影響を与えると指摘しているのです。

一見すると眉に唾をつける話かもしれませんが、私はそれを肌で感じています。

たとえば、私はYouTubeで化学業界の情報発信をしていますが、最も時間がかかるのは原稿を書く工程です。1本あたり約4,000字。調査から執筆、推敲まで丸一日かかることもあります。

しかしこの作業を生成AIに任せると、状況は一変します。
テーマの調査、情報の整理、原稿の構成、すべてAIが短時間で処理してくれる。一日がかりの仕事が、コーヒーを一杯飲む間に終わってしまうのです。

もはやライティングの分野では「専門家」と「素人」の境界線がぼやけつつあり、「知識のコモディティ化」が生じているのかもしれません。

絵画と写真

それでも私は、YouTube原稿やコラムの初稿にはAIを使わないようにしています。

というのも、私は今の「書く」行為の置かれた立場は、かつて「描く」行為、つまり絵画の置かれた立場と重なるように感じているためです。

19世紀以前、絵画の役割の一つは「現実をありのままに記録すること」であり、例えば社会的地位のある人にとって、画家に肖像画を描いてもらうことは一つのステータスだったとされています。

しかし19世紀になると、カメラが登場します。カメラは圧倒的な速度で、事実をありのままに記録してしまいます。結果、画家たちがわざわざ肖像画を描く必要性は薄れました。写真であれば、長々とポーズをとる必要はなく、安価で、しかも正確だからです。

この技術革新に直面し、画家ポール・ドラローシュは「今日を限りに絵画は死んだ」と述べたと言われています。

それほどまでに、カメラの登場は画家たちに衝撃を与えたとみられます。

これからの「書く」行為

では、これからの「書く」行為はどうなるのでしょうか。

肖像画が写真にとって代わられたように、「模範解答」が存在する文章ほど、AIに代替されていくのではないかと感じています。

例えばライティングの領域でいえば、定型的なメールの返信、議事録の作成、報告書の要約などが挙げられ、「模範解答」があるのであれば、極論を言えばAIが書いても変わらないのです。

では、「今日を限りに書く行為は死ぬ」のでしょうか。

私はそうではないと考えていて、実際に写真が普及しても、画家は死にませんでした。

むしろ画家たちは、世界が「どうあるか」ではなく、「自身の目にはどう映り、どう感じたか」へと関心を移したとされています。つまり、その人でなければ描けない“表現”に注目が集まったのです。

文章も同じで、生成AIにより「知識のコモディティ化」が進むとしても、「その人にしか書けないもの」の価値は維持されるのではないでしょうか。

そして私はそれを、「現実の事象」と「個人の心象」の交点から生まれるような文章ではないかと考えています。

つまりAIが省略してしまう、多様な情報と向き合い、頭の中の曖昧なイメージを言語化し、論理を組み立てる、これら思考のプロセスで紡がれるような文章です。

そういった文章は書いていて楽しいもので、そして自分が楽しいと思うものを書けば、きっとそれを楽しんでくれる人がいる。

足早なウサギは見落とすけれど、道草を食いながら歩む亀だからこそ、書ける文章もある。

そう思いながら、私は文章を書いています。

ごりお
大学院を修了後、化学業界に勤務。YouTube、ブログ、noteなどで化学業界や企業解説を発信中。YouTubeは登録者4.3万人。