メチル基といえば、化学式「-CH3」で表される最小の有機化合物です。
しかし、この小さな小さな有機化合物が生き物の運命に影響することが分かっています。
分子生物学の領域でいま「エピジェネティクス」という現象が注目されています。
わたしたちの特徴は両親から受け継いだDNA=遺伝子情報を元に決まり、そしてDNAの構造は受精卵の頃から一生変わらないものだとこれまでは考えられてきました。
しかしエピジェネティクスの研究によって、実はDNAという巨大分子は、突然変異が起きなくても成長過程での環境によって変化することがあると明らかになってきました。
その大きな要因が「メチル基」だというのです。
小さな小さなメチル基は、どうやって遺伝子の機能を変えてしまうのでしょうか。
太りやすさに関する遺伝子
どうやら自分は太りやすい体質のようだ。親は痩せているし、そんなに大食いするわけでもないのに、自分だけ「水でも太る」ような体質なんじゃなかろうか・・・どうしてこうなった?
そんなことにお悩みの方は結構おられるかと思います。
実は、太る体質と遺伝子の関係について、このような大規模追跡研究があります。
第二次大戦終結直前の1944年、オランダでは深刻な食糧不足が起きていました。
西部では2万2000人もの死者も出したこの飢饉で、1日あたり1000キロカロリー以下の栄養しか摂取できなかった人たちも多く、その健康状態について長期間の追跡調査が行われました。
すると、低栄養状態にあった母親から生まれた人たちについて、このような傾向が明らかになりました。
- 男性の入隊時検査(18歳)では、胎児期の4か月目から誕生までの間に飢饉を経験した人は、胎内で飢饉を経験しなかった人のおよそ2倍の割合で肥満になっていた
- 男女両方を対象にした調査では、胎内で飢饉を経験した人は統合失調症にかかるリスクが著しく高かった
- 女性を対象にした調査では、胎児期の7か月以降に飢饉を経験した人は、異常に小さく生まれていた一方、胎児期の3か月までに飢饉を経験した人は、標準より大きく生まれた
そして、彼らが50歳になった時に男女両方を対象に調査をすると、
- 胎内で飢饉を経験した人は経験していない人より肥満になりやすく、高血圧や冠状動脈性心疾患、2型糖尿病になっている人も多かった。58歳まで同じ傾向がみられた
さらに詳細に見ていくと、飢饉を体験した時期に大きく左右される特徴もありました。
- 冠状動脈性心疾患と肥満は、胎児期初期の3か月間の飢饉経験に関連
- 4か月目から6か月目までに飢饉を経験した人は肺と腎臓に多くの問題を抱えていた
- 糖尿病予備軍は、誕生前の3か月間に飢饉を経験した人に顕著だった
飢饉と生まれた子の特徴との関係性はあまりに明確です。
これは、分子生物学の領域で注目されている「エピジェネティクス」という現象によるものです。
「epi」は「上の」「外の」といった意味を持ちます。
「DNA修飾」という現象
遺伝子=すなわちDNA分子は受精卵のときから変わらない、そんなイメージがあるかもしれません。メンデルの法則です。
しかしエピジェネティクスに関する様々な研究から、塩基配列の変化=つまり突然変異ではなく、後から「遺伝子が書き換えられる」ことが明らかになってきました。
胎内でオランダ飢饉の影響を受けた人たちのDNA分子にも、ある特徴が見つかっています。
それは、DNAへのメチル基の付着の度合い=「メチル化」の度合いが、飢饉を経験した人とそうでない人とで異なる遺伝子がいくつかあったということです。
特に「インスリン様成長因子2(IGF2)」のメチル化の度合いが変化していることは、研究者に驚きをもたらしました。IGF2がどのように疾患を誘発するかの詳細な機序まではまだ分かっていませんが、インスリンに似た遺伝子のメチル化度合いが遺伝子の活性化・不活化に関わっているようだ、というのは興味深い話です。
巨大分子と最小有機化合物
DNAという巨大分子にメチル基「-CH3」という最小の有機化合物が付着するだけで、機能が大きく変わってしまう。これがエピジェネティクスです。アセチル基(CH3CO-)も関わっていることがわかっています。
猫の毛色もエピジェネティクスの例として知られています。
メス猫の場合、親から受け継いだ2本のX染色体のうち片方だけが機能し、もう片方は不活化されています。

(出所:産業技術総合研究所「エピジェネティクスとは?科学の目でみる、 社会が注目する本当の理由」)
https://www.aist.go.jp/aist_j/magazine/20240828.html
2本の染色体上の遺伝子がどちらも同じ毛色を発現するものであれば片方の染色体が不活化されても親と同じ色になりますが、2本の遺伝子が異なる色を発現する場合、どちらが不活化されるかは細胞内でランダムに決まるというものです。
と言っても、つい最近まではこれは仮説の域を出なかったのですが、今年5月に九州大学の研究チームが猫の毛色に関する遺伝子を突き止めました。そして不活化されたオレンジ色素を出す遺伝子「ARHGAP36」は「高度にメチル化されている」ことも確認されています。
メチル化は遺伝子の不活化に関わっているようです。
メチル基やアセチル基はどこからやってくる?
エピジェネティクスに関わるメチル基やアセチル基は、細胞が置かれた状態により代謝が変化することで生産量が変化します。
食事や喫煙、飲酒、ストレスなどの外部環境がDNA修飾に関わり、同じDNAを持って生まれたはずの一卵性双生児でも年齢とともに大きく違っていくこともあります。まさに「生活習慣病」とはこのことでしょう。生活習慣は遺伝子の性質まで変えてしまうのです。
それだけでなく、子の世代まで受け継がれる可能性も大いにあります。
エピジェネティクスの研究が重要な理由
なおエピジェネティクスが注目されている最大の理由は、この性質を逆手にとれば病気の治療に役立つのではないかと期待されているからです。
がん細胞の遺伝子にはメチル基が異常に蓄積し、細胞の生存や増殖、機能に影響を与えています。よって、メチル基を取り除くことでがんに関する遺伝子のオン・オフをコントロールする「脱メチル薬」の開発・実用化が進んでいるのです。
がん細胞の増殖にかかわる遺伝子を不活化し、逆に、メチル基によって不活化されている免疫に関する遺伝子を活性化するといった脱メチル薬は一部は実用化されているほか、理化学実験所は動物などを使った実験で、ストレスによってメチル化され不活化される遺伝子を同定しています。
他には新潟大学が筋萎縮性側索硬化症 (ALS)に関わる遺伝子「TDP-43」のメチル化状態が、ALSの発症年齢と関連することを突き止めています。
病気の中には、まだ関与している遺伝子が特定されていないものもあります。これらの遺伝子の同定、メチル化などの様子がわかっていけば、次第に脱メチル薬の活躍領域は広がっていくことでしょう。
そして繰り返しになりますが、オランダ飢饉を胎内で過ごした人が様々な疾患リスクを抱えていることが分かっているだけでなく、理化学研究所が実施したショウジョウバエなどの研究からは、ストレスによってメチル化された遺伝子の性質が、子や孫の代まで受け継がれることがある、という事実も明らかになっています。
自分だけでなく、自分の生活様式や取り巻く環境の中で後天的に身につけたDNAの変化が子や孫に受け継がれる。
そう考えると、不摂生などによる自分自身の体質の悪化は他人事ではないことがわかるでしょう。


