2026年、Bluetoothに新たな規格が追加される見込みです。注目の一つが、いわゆる「ハイレゾ標準規格」。家電量販店などで、ハイレゾ対応のイヤホンやスピーカーを見かけたことがあるのではないでしょうか。ハイレゾはハイレゾリューションの略で、高解像度を意味します。
では、音の解像度が高いとはどういうことか。
実は、現実世界の音をデジタルに変換する際には、ある種の間引きが行われています。私たちが普段耳にしている音は、空気の振動であり、連続的な波です。なので言ってしまえば、そこには無限の解像度が存在しています。一方でそれをデジタルに変換する際、連続した波を一定の間隔で切り取り、 1と0の組み合わせに置き換えます。この間に、どうしてもこぼれ落ちてしまう情報があるのです。デジタルで音楽を聴いたとき、生演奏と比較して音の奥行きや滑らかさが欠けて感じるときがあるのは、そのためだと言われています。
対してハイレゾ音源では、音の周波数や強弱といった情報をより細かく再現することで、元の連続的な量(アナログ)に近づけようとしています。アナログの連続性を追いかけ続けた技術の執念が、音の奥行きや滑らかさを再現しているわけですね。
化学業界に押し寄せるデータ化の波
さて、こうしたアナログからデジタルの変換は、いま化学業界が直面している課題と共通点があるように感じています。
昨今はデジタルトランスフォーメーション(DX)を旗印に、化学業界でもデータ化の波が押し寄せています。例えば、紙情報や各種記録の電子化、設備稼働状況のリアルタイム取得、IoTカメラによる人の動線のデータ化といった取り組みがじわじわと広がっています。
この流れの背景にあるのは、情報科学の発展です。膨大なデータを高精度に解析する技術が確立されたことで、データは単なる「記録」ではなく、企業の競争力を左右する「資産」へ進化したとされています。したがって多くの企業が、「アナログの無限の情報を、いかにデジタルで取り込むか」模索している状況なのです。
そのような時代のうねりに対して、現場の体感は少し異なるのではないでしょうか。実際のところ、思ったようにDXが進まないケースも多いと感じています。
R&Dにおける課題
では、具体的にどのような課題があるのでしょうか。ここからはR&Dの目線で、現場が抱える悩みを綴りたいと思います。
R&Dにおける代表的なDX手法として、マテリアルズ・インフォマティクス(MI)が挙げられます。これは過去のデータから最適な配合や条件を予測する技術で、「やるべき実験」を効率的に選択できるようになります。
このMIを実現するうえで欠かせないのが、きれいに整備されたデータです。MIはデータ解析に基づく確率的探索ですから、データの量や質が結果に影響します。つまり 企業が長年蓄積してきた独自の「実験データ」や「知見」こそがMIの原動力であり、他社との競争力の源泉になると期待されます。
ところが、過去何十年というデータが、すぐに解析できる状態で保存されていることは極めて稀なのです。
データの解像度が低い
企業に蓄積されたデータが、なぜ解析に使えないのか。
研究の現場でデータは、紙の実験ノートや研究者ごとにフォーマットの異なるExcel、良い結果だけをまとめた報告書などに散在しています。当時の担当者であれば空気や行間を読んで解釈できるものの、第三者からすれば解読が難しい、そんな古文書のようなデータも少なくありません。
当然ですが、機械は空気も行間も読むことができません。そのため乱雑に蓄積されたデータをMIで活用するには、データを取捨選択しながら整理し、文脈を補完して共通のフォーマットに変換する、ある種の翻訳のような作業が必要になります。
データクレンジングと呼ばれるこの作業だけでも、気が遠くなる時間を要します。それゆえ、過去のデータについては資産ではなく負債だと、見切りをつけた方が良い場合さえあるのです。
ちなみに、こういったデータの未整備は、日本の終身雇用が背景にあるそうです。人材の流動性が低く、厳密な引継ぎの必要性が少なかったため、誰でも分かるようにデータを一元管理するインセンティブが働きにくかったと言われています。特にR&Dは探索的な業務であり、属人化が許容されていた節があるのではないでしょうか。
いずれにせよR&Dの現場では、個別最適化された情報のサイロが多数生みだされています。
標準化の壁
では、過去のデータは水に流すとして、これから生まれるデータをきれいに整備して蓄積すればいい、と思われるかもしれません。しかしそこにも、大きな二つの壁があります。
一つ目が、標準化の壁です。
データを蓄積する上で重要なのが「標準化」です。人によって評価基準や単位、入力形式が異なると、とたんにデータは負債になります。したがってフォーマットを統一してはじめて、データの比較しやすさや検索性、機械の可読性が向上し、MIでの活用が可能になるのです。
それに対して、複雑系である化学プロセスを標準化されたフォーマットに落とし込む行為は、決して簡単ではありません。そこには処方や反応条件だけでなく、スケールや装置の個体差など多様な因子が絡み合っていますし、匂いや手触りといった定量化が困難な要素も少なくありません。
特に難しいのが、化学反応といった動的なプロセス。撹拌やそれに伴う液の流動、微妙な色味の変化など、数値化しにくい「文脈」がたくさん存在します。こういった情報をフォーマット外として切り捨ててしまうと、化学反応の本質を見失う危険性があるのです。
入力コストの壁
もう一つの大きな壁が、入力コストです。
これまで述べたように、解析可能なデータを蓄積しようとすれば、あらゆるメタデータからプロセス、その結果に至るまで網羅的に記録する必要があります。しかし、より詳細にデータを入力しようとすればするほど、現場の研究員の手間は増大します。
加えて、機械にとって可読性の高いフォーマットは、往々にして人間にとっては読みにくいものです。研究開発を加速させるために導入したはずのDXが、膨大な入力作業と視認性の悪化で現場を疲弊させ、結果として反感から定着しない。これがDXのよくある落とし穴ではないでしょうか。
それでもDXは止められない
以上をまとめると、データを解析可能な形で入力し続けるのは非常に骨の折れる作業であり、入力に伴う現場の負担増がDXの大きな壁になっていると感じています。そして解像度の低い音源ではザラついた音質になってしまうように、質の低いデータではDXもまたノイズだらけになり、期待したような価値を生み出すことはできないのです。
一方で難しいからと言って、DXを怠って良いわけでもありません。経営層の視点から眺めると、また違った景色が見えてくるのです。
というのも、生成AIを筆頭にデジタル技術は進化を続けており、将来的には研究や製造の現場が、AIやロボットに置き換わる可能性もゼロではありません。すでに人とAIが共存するフェーズへ移行しつつある今、データは「人が考えるため」ではなく、「AIに学習させるため」に収集するものへと変わっていくのかもしれません。
なので言ってしまえば、今は仕事のOSをアップデートするような大きな変化が、目と鼻の先まで迫っている可能性があるのです。つまり現代におけるDXとは、仕事の在り方を再定義するような中長期戦略の一つであり、そういった視点から見れば、多少負担が増えようともDXを止めるわけにはいかないのです。
もちろん、音楽がそうであったように、デジタル化には課題があります。アナログな情報をデジタルに変換する際に生じる摩擦が、現場の負担となっているのも事実だと思います。
一方でかつて音楽のデジタル化が課題を乗り越え、「ハイレゾ」という高解像度を実現したように、私たちも「研究データのハイレゾ化」を目指すべき時が来ているのかもしれません。
複雑な化学プロセスについて、現実世界と遜色のない高解像度なデータセットを構築できたとき、化学業界のDXは真の価値を発揮すると期待しています。


