グリーンケミカルはサグラダ・ファミリアになり得るか

コラム

明けましておめでとうございます。
2026年の幕が開けました。スポーツ界に目を向ければ、イタリアでの冬季オリンピック、そして北米3カ国共同開催となるFIFAワールドカップが控えています。一方で政治経済においては、秋に米国中間選挙も予定されており、浮かれてばかりはいられない一年となりそうです。

そのようななかでも、個人的に感慨深いニュースがあります。かつて「未完の建築」の象徴であったスペインのサグラダ・ファミリアが、ついに主要部分の完成を迎えるというのです。全体竣工は2034年頃ですが、完成まで300年はかかると言われていたプロジェクトが、約144年の工期で一部完成することになります。3DソフトウェアといったITの導入をはじめ、技術革新が工期の短縮に寄与したようです。

遠のく環境目標

サグラダ・ファミリアが予想以上のスピードで完成へ向かう一方、対照的に「遅延」がささやかれているのが環境目標です。一つの節目である2030年まで、残り4年。日本政府が掲げた「2013年度比で温室効果ガス46%削減」という目標や、国連のSDGs達成期限など、多くの約束が期日を迎えようとしています。

折り返し地点を過ぎ、残された猶予も少なくなった今、足元の進捗はどうでしょうか。 日本政府の目標について言えば、2025年の環境省発表によると、温室効果ガスの削減実績は約27%減となりました(1)。再生可能エネルギーや原子力の活用、国内製造業の縮小によるエネルギー消費減が主な要因とされています。

したがって、2030年目標まで残り20%弱。登山に例えれば「時間はすでに7合目まで過ぎているのに、足元はまだ6合目」といった状況で、やや険しい道程でしょうか。

一方で世界に目を向ければ状況はさらに深刻で、国連が公表した「持続可能な開発目標報告2024」によれば、SDGsのターゲットのうち、順調に進んでいるのはわずか17%に過ぎず、およそ4割は停滞、あるいは後退しているとされています(2)。

今後を考えても、カーボンニュートラルに懐疑的なトランプ政権の影響や、欧州における内燃機関車廃止方針の揺らぎなど、かつて追い風だったグローバルな潮流には暗雲が垂れこめています。

化学業界が直面する「死の谷」

では、私たちの働く化学業界はどのような立ち位置にあるのでしょうか。産業部門のCO2排出量において、化学業界は鉄鋼に次ぐ第2位の排出規模を持ちます。一方で削減率は2013年比で24.8%にとどまり、他の産業と比較してもやや見劣りするのが現状です(1)。

実際に化学業界はHard-to-Abate(排出削減が困難な)産業に分類されており、その脱炭素化はハードルが高いとされています。ナフサ分解など高温の熱源を必要とするうえに、燃料だけでなく原料そのものも転換する必要があるからです。

しかし同時に、化学はCO2を資源として活用し、新たな価値を生み出せる稀有な産業でもあります。2050年のカーボンニュートラル達成に向け、既存の延長線上にはない技術革新が渇望されているのです。

実際に2020年頃には、多くの企業が脱炭素と言う旗印のもと、バイオマス転換やケミカルリサイクル、CCUSといったグリーンケミカルの構想を打ち出しました。「脱炭素はピンチではなく、次の成長エンジン」という風潮があったのではないでしょうか。しかし今、それらプロジェクトの一部では計画の遅延や事業化判断の見送りが相次いでいます。

なぜ良貨は駆逐されるのか

社会的な要請に対して、なぜグリーンケミカルの技術革新は進まないのか。大きな理由は、コストです。グリーンケミカルは、研究開発費や設備投資、原燃料転換にかかる費用から、どうしても割高になる傾向があります。したがって技術的には確立されていても、生産コストが高く、採算が取れないという壁に阻まれたのです。いわゆる、イノベーションにおける「死の谷」に陥っている状態だと言えます。

一方でこの問題は、企業の努力不足や技術の未熟さだけで片付けられるものではありません。個別の企業努力ではどうにもならない、市場構造に課題があると感じています。

例えば、経済学に「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があります。 いわゆる「グレシャムの法則」です。金の含有量が多い「良貨」と、品質の悪い「悪貨」が、市場で同じ額面価値として通用する場合、人々は支払いを悪貨で済ませようとします。簡潔に言えば、悪貨で支払う方が得だからです。その結果、市場には悪貨しか出回らなくなるという現象です。

これを現代のグリーンケミカル市場に当てはめると、どうなるでしょうか。ここに環境負荷の高い従来の化学製品(悪貨)と、環境負荷の低いグリーンケミカル(良貨)があるとします。これらは環境負荷が異なるものの、その構造や性質は同じであることから、市場では同じ「額面価値」として扱われます。その結果、市場では、従来の化学製品(悪貨)を用いる方が得であり、グリーンケミカル(良貨)は市場から駆逐されてしまうのです。

グレシャムの法則は、良貨と悪貨という価値の異なるものが、同じ「額面価値」として扱われているために生じます。つまり、グリーンケミカルにおいても、実質的な環境価値の違いが価格に反映されない限り、駆逐される運命にあるのではないでしょうか。

課題は市場受容性と生存競争

ではなぜ、環境価値が市場で反映されないのでしょうか。 最大の障壁は、市場の受容性にあります。消費者庁が公表した消費生活意識調査によれば、消費者の65%は環境に配慮した企業の製品を好意的に受け止めています(3)。一方で、そのために「10%以上のコストアップ」を許容できる層は全体の2割程度に過ぎません。むしろマジョリティは「割高なら購入しない」層であり、44%を占めていました。

つまり多くの人々にとって、環境配慮は「追加コストを負担してまで手に入れたいもの」ではないとみられます。これでは企業にとってもあまりに値上げのリスクが高く、価格を据え置かざるを得ないのが実情と言えます。

さらに、企業が置かれた競争環境も拍車をかけています。Jung and Yooらの研究報告によれば、「市場競争が激しい業界ほど、ESGスコアと企業の財務パフォーマンスの正の相関は弱まる」とされています(4)。激しい価格競争のなかで、余裕資金のない企業が巨額の環境投資を行えば、財務が圧迫され、短期的には競争力を失いかねないからです。長期的な持続可能性よりも、短期的な生存競争を優先せざるを得ない。これが、多くの企業が直面しているジレンマなのかもしれません。

悪貨を駆逐するには

このように、グリーンケミカルの社会実装は一朝一夕に成せるものではありません。消費者の意識を変え、その価値を正当に価格へ反映させ、企業が腰を据えて開発に挑める環境を作る。この道のりは、それこそ冒頭のサグラダ・ファミリアと同じく、本来なら300年を要するほどの難事業なのかもしれません。

一方で、サグラダ・ファミリアは工期を劇的に短縮し、ついに完成を迎えようとしています。その背景には、IT技術の導入だけでなく、人々の「共感」があるとされています。唯一無二の歴史を持つサグラダ・ファミリアは「世界で一番人気のある工事現場」となり、そこから得られた潤沢な観光収入が、完成を早める強力な原動力となったのです。

グリーンケミカルについてもそうであれば、風向きが変わるのかもしれません。つまりカギとなるのは、その「プロセス」や「ビジョン」が社会や市場の共感を生み、独自の価値を築けるかどうか。市場がその価値を正しく認めたとき、初めて「良貨」は「悪貨」を駆逐し、新たなスタンダードとなるのです。

(1)2023年度の我が国の温室効果ガス排出量及び吸収量について
https://www.env.go.jp/press/press_04797.html

(2)持続可能な開発目標(SDGs)報告2024
https://www.unic.or.jp/files/SDGs_Report_2024_Infographics_Japanese.pdf

(3)「令和7年度消費生活意識調査(第3回)」の結果について
https://www.caa.go.jp/notice/entry/044449/

(4)Jung, Ye Lim & Hyoung Sun Yoo (2023) “Environmental, social and governance activities and firm performance: Global evidence and the moderating effect of market competition,” Corporate Social Responsibility and Environmental Management 30(6): 2830-2839.

ごりお
大学院を修了後、化学業界に勤務。YouTube、ブログ、noteなどで化学業界や企業解説を発信中。YouTubeは登録者4.3万人。