コミュニケーションは化学産業を強くするか

コラム

この度、光栄なことに「化学コミュニケーション賞」をいただく運びとなりました。この場をお借りして、関係各所の皆様に厚く御礼申し上げます。

本賞は、化学に関心を持つ人や、化学業界を目指す人を増やして、日本の化学のすそ野を広げることを目的としています。その背景には、「化学に対する社会的な関心が低下している」という課題があるそうです。

例えばIEA(国際教育到達度評価学会)の調査結果をみてみると、小中学生ともに、理科の成績は前回調査と比べて有意に低下したと報告されています(1)。出題範囲の違いといった指摘はあるものの、若い世代における化学への関心の低下は、将来の人材不足や産業競争力の低下につながりかねない、静かなリスクをはらんでいます。

だからこそ、化学の意義や魅力を伝える「コミュニケーション」は、業界の未来を考えると欠かせません。私自身、これからも発信を続けていかなければと、改めて身の引き締まる思いです。

事故に潜むコミュニケーションエラー

一方で、コミュニケーションというのは思いのほか難しいものです。「何度言っても伝わらない」、「言いたいことがうまく言えない」など、職場でも多くの方が実感されているのではないでしょうか。

これらはよくあるすれ違いかもしれませんが、決して侮れません。こうした小さな摩擦から軋轢が蓄積し、モチベーション低下、世代間の壁、退職者の増加といった形で、組織に亀裂が生じてしまいます。

実際に厚生労働省の雇用動向調査をみると、仕事を辞めた理由として「職場の人間関係が好ましくなかった」が上位に挙がっています(2)。組織を左右するのは、依然として「人と人の関係」であることがうかがえます。

さらに深刻なのが、安全や信頼にかかわるトラブルではないでしょうか。実際に、医療現場での患者取り違え事故、東海村JCO臨界事故、チャレンジャー号爆発事故など、コミュニケーションが引き金となり、大きな問題となった事例は少なくありません。

これらは「現場が違和感を言い出せなかった」「管理側と認識のずれがあった」「報告したが深刻に受け取られなかった」など、組織の意思疎通が適切に機能せず、誤った意思決定を生んだとされています。つまり重大なリスクは「技術」や「設備」だけでなく、目に見えない組織の「空気」にも潜んでいるわけです。

もちろんこれは化学業界においても、他人事ではありません。ひとたびプラントトラブルが起きれば、人的被害だけでなく、操業停止、環境や地域社会への影響など、取り返しのつかない結果を招く可能性があります。

ISOの枠組みやマニュアルだけでは捉えきれないこのリスクに、私たちはどう立ち向かうべきなのでしょうか。

コミュニケーションと生産性

もちろん、コミュニケーションは単なるリスクの種ではありません。むしろ、生産性を高めるうえで欠かすことのできない、前向きな要素でもあります。

例えば、グーグルが実施した「プロジェクト・アリストテレス」という調査結果があります。これは「生産性の高いチームとは、どんなチームなのか」を解き明かすための大規模な社内研究です。

興味深いのは、「優秀な人材を集めれば強いチームができる」かといえば、そうではなかったということです。個々の能力や経歴、スキルの高さよりも、チームの成果を最も左右していたのが「心理的安全性」。つまり、「誰がいるか」よりも、「どんな雰囲気で関わっているか」のほうが重要だったのです。

少し意外な結果ではないでしょうか。

そもそも心理的安全性とは、メンバーが失敗を恐れず、本音で発言・質問できる安心感を指すそうです。この土台がしっかりしているチームでは、情報共有が活発になり、多様な視点やアイデアが自然と集まります。その結果、意思決定の質が高まり、問題の兆候も早い段階で発見できるようになったのです。

さらに無駄な気遣いや不安から解放されて仕事に集中できるようになり、挑戦や改善の加速から、学習速度の向上なども期待されるそうです。

つまり、強いチームの秘訣は「優秀な個人」ではなく、「誰もが安心してコミュニケーションできる環境」にあると言えます。アリストテレスの言葉に「全体は部分の総和より大きい」というものがありますが、まさに良いチームは単なる足し算ではなく、掛け算によって生まれるのかもしれません。

心理的安全性を実現するには

ただこの心理的安全性を実現するのは、口で言うほど簡単ではありません。というのも、多くの場合コミュニケーションの成否を決めるのは、「伝える側」ではなく「受け取る側」だからです。

劇作家のジョージ・バーナード・ショーは、「コミュニケーションにおける最大の問題は、それが達成されたという錯覚にある」という言葉を残したそうです。確かに、「伝えた側は満足し、受け取った側は首をかしげている」という光景はよくあるかもしれません。

そして実は、私が情報発信をしていて一番頭を悩ませるのも、まさにこの部分なのです。例えば、化学業界は専門用語が多く、石油化学から半導体まで分野も多岐にわたります。したがって、受け手の知識や理解度はまちまちで、いわゆる「情報の非対称性」が存在します。

それゆえ、良かれと思って詳しく説明しても、専門用語を並べれば、相手に分からないという印象を抱かせてしまいます。そして置いていかれたという疎外感から、苦手意識を植え付けてしまう恐れすらあるのです。

だからこそ、相手にこの言葉は通じるか、相手の知識や興味レベルを気にかける癖をつける必要があります。発信のスタートは相手との距離をつかむところから始まるのです。

そして私の場合は、専門用語をできるだけ噛み砕き、平易な言葉や身近な例え話を使うなどして、一人でも多くの方に楽しんでいただけるよう日々試行錯誤しています。原稿を書く行為は孤独な行為ですが、独りよがりにならないようにと自戒しています。

共感が生まれるか

結局のところ、コミュニケーションの本質は、ただ「伝える」ことではなく、「共感」を生むことなのだと思います。例えば仕事であれば、その目的や意義、やりがいを共有する。私の場合は、化学の奥深さや面白さ、そしてその重要性を分かち合うことで達成されます。

完璧なコミュニケーションが存在しない以上、どうすれば相手が腑に落ちる言葉へ翻訳できるかを考え、実行していく。この寄り添う姿勢が、心理的安全性につながると考えています。

今後も化学産業が活性化するよう、誰もが安心できる「心理的安全性」の醸成に、少しでも貢献できればと願っています。複雑な化学の世界と、社会の人々を繋ぐ架け橋のような存在になれるよう、これからも試行錯誤を重ねながら、真摯に言葉を紡いでいく所存です。

最後になりますが、これまで私の発信を応援してくださった皆様、そして今回の賞にご選出いただいた関係者の皆様に、改めて深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

(1)TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)
https://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/timss/index.html

(2) 令和5年 雇用動向調査結果の概要
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/doukou/24-2/index.html

ごりお
大学院を修了後、化学業界に勤務。YouTube、ブログ、noteなどで化学業界や企業解説を発信中。YouTubeは登録者4.3万人。