PwCの視点: キャッシュ創出力の再設計 ――成長投資を支えるバリューチェーン改革――

コラム

M&Aと成長投資を支える原資は、どこから生まれるのか

本連載では、企業価値向上に向けた成長戦略とM&A戦略を論じてきた。方向性は見えつつある。

だが、M&Aや成長投資を実行するには原資がいる。設備投資、研究開発、認証取得、PMI。いずれも多額の資金と時間を要する。その原資を生み出すのは既存事業のキャッシュ創出力にほかならない。ポートフォリオ変革の成否は、成長戦略の巧拙だけでなく、足元の事業からどれだけ安定的にキャッシュを創出できるかにかかっている。

問題は、そのキャッシュ創出そのものが、組織の断絶によって阻まれていることだ。営業が引き受けた仕様が製造現場では切替頻度の増加や洗浄ロスとなって跳ね返る。研究開発の知見は量産移管で十分に引き継がれず、保全と生産計画は噛み合わない。各機能が部分最適で動いた結果、企業全体では採算悪化、供給不安、意思決定の遅れとして表れ、本来得られるはずのキャッシュが静かに失われている。実行支援の現場で繰り返し目にする構造である。

AIの普及は、この課題を解決するどころか、むしろあらわにしつつある。分析コストは急速に下がっていく。しかし、分析結果を現場の意思決定へ結びつける仕組みがなければ、AIはPoC止まりで終わる。企業の制約は「見えない」から「見えているのに動けない」へ移っているのである。

バリューチェーン全体をバリューアッププログラムとして再設計する

キャッシュ創出力を高めるために必要なのは、個別ソリューションの積み上げではない。顧客価値、採算、操業、生産体制といった論点をバリューチェーン全体で束ね、KPI・会議体・意思決定ルールまで含めて一体設計することだ。打ち手を再現性ある成果に変える実行設計こそが問われる。その中核は三つの接続点にある。

第一は、顧客価値と採算の接続である。小ロット、仕様差、切替ロス、特殊検査、技術サポートまで含めて顧客別採算を捉え直し、「売れている事業」ではなく「キャッシュを生む事業」を見極める。問うべきは「いくらで売るか」ではなく、「何に対して対価を得るか」である。もっとも、精緻な原価モデルが前提ではない。意思決定に耐えうる粒度で見える化し、それを前提に運用を回すことが出発点である。

第二は、操業知と意思決定の接続である。化学企業の競争力の源泉は、熟練者が長年蓄積してきた操業の暗黙知にある。まず取り組むべきは、この暗黙知を可視化し、標準化することだ。ただし、可視化された知見が現場に共有されるだけでは十分ではない。それを日々の運転条件や品質判断に埋め込み、標準条件や判断基準として再現可能な意思決定ルールへ変えてはじめて、操業知は利益を生む資産になる。歩留まり、エネルギー効率、品質安定、供給責任が競合したとき、何を優先するのか。その判断軸の共有と判断ルールの運用が、キャッシュ創出の再現性を高める。

第三は、生産体制と資本配分の接続である。高経年設備を多く抱える化学企業では、修繕費や設備投資が膨らみやすい一方、その投資判断が採算や需給との結びつきなく行われていることが少なくない。しかも、求められているのは現状の設備をどう効率化するかだけではない。工場やラインの統廃合を含む生産体制の再設計、さらには自社で保有すべき資産と他社や地域と共有すべき資産の線引きまで踏み込むことで、固定費構造を根本から見直し、資本を成長投資へ解放する道が開ける。問われているのは、修繕費を抑えることではなく、設備ごとの採算性、需給変動への柔軟性、更新投資の回収可能性を見極めたうえで、維持・集約・外部活用のどれを選ぶかという前提そのものの見直しである。

キャッシュ創出力を備えた企業だけが、変革を前に進められる

ポートフォリオ変革を前に進めるには、成長戦略を描くだけでは足りない。既存事業のバリューチェーン全体をバリューアッププログラムとして再設計し、安定的なキャッシュ創出体質を築くことが不可欠である。現場と経営の間にある断絶を埋め、稼ぐ力とつなぐ力を一つの経営システムとして備えなければならない。M&Aや成長投資を支える原資を自ら創り出せる企業だけが、2030年に向けて企業価値を高めていくことができる。そして次に問われるのは、生み出した原資をどこへどう再配分し、企業価値向上へ結びつけるかという財務戦略である。

坂井 哲明
PwCアドバイザリー合同会社 / ディレクター
2008年にPwCアドバイザリーの前身の法人に入社。エネルギー・素材(化学・金属・鉱業)産業チームに所属し、同セクターにおける事業バリューアップやターンアラウンド案件に多数関与。
森岡 亮
PwCアドバイザリー合同会社 / シニアマネージャー
総合化学メーカー、大手監査法人を経てPwCアドバイザリーに入社。事業再生、構造改革、オペレーション再構築などを通じた事業バリューアップを支援。