みなさんは「アンモニア」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
多くの人がイメージするのは、アンモニアのつんと鼻をつくような刺激臭かもしれません。
化学の水溶液の授業でもおなじみのアンモニアは、窒素と水素から構成される化合物で、常温・常圧では無色透明の気体です。
名前自体は広く知られていますが、人類の食料生産や産業を支えてきた立役者であることは、あまり知られていないかもしれません。
そんなアンモニアは、長い年月を経て、新たにエネルギーとしても期待が高まっています。
アンモニアが人類の食糧危機を救った話
「空気からパンを作る」
一見、突拍子のないフレーズのようにも感じられますが、実はパンをはじめとする私たちの食料は、空気中に存在するある成分と深く関わっています。
その成分とは、大気の約8割を占めている窒素(N₂)です。
窒素は、植物の成長に欠かせない重要な栄養素であり、農作物の品質や収穫量にも大きく影響します。
つまり、空気中の窒素をアンモニアに変え、肥料として活用することで、小麦などの作物の生産を支え、最終的に私たちの食卓へとつながっているのです。
これが、アンモニアが「空気からパンを作った」と表現される理由です。
19世紀以降、産業革命による人口増加や社会の発展に伴い、将来的な食糧不足への懸念が高まっていました。
そこで、空気中の窒素からアンモニアを人工的につくる技術として開発されたのが「ハーバー・ボッシュ法」です。
この技術は、ドイツの研究者ハーバーが空気中の窒素からアンモニアを合成する方法を確立し、その後、同じくドイツの研究者であるボッシュが工業化することで、大量生産を可能にしたものです。
その功績から、両者の名前をとって「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれています。
ちなみに、このハーバー・ボッシュ法の確立には、実は日本人研究者も関わっています。
東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学科を卒業後、ドイツに留学していた田丸節郎は、ハーバーの研究チームに加わり、アンモニア合成に必要な精密な測定によって、実用化への道を支えました。
ハーバー・ボッシュ法では、水素(H₂)と窒素(N₂)を高温・高圧の環境で反応させ、アンモニア(NH₃)を合成します。

出所)経済産業省「アンモニアが“燃料”になる?!(前編)~身近だけど実は知らないアンモニアの利用先」
https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/ammonia_01.html
原料となる水素は、主に天然ガスなどの化石燃料から製造されますが、再生可能エネルギー由来の電気を用いた水の電気分解によって水素をつくる技術も研究されています。
化学肥料の大量生産を可能にしたこの技術によって農作物の収穫量は大きく向上し、結果として人類の食糧危機を救ったのです。
その功績は世界的にも評価され、ハーバーとボッシュの二人は、それぞれノーベル化学賞を受賞しています。
産業を支えるアンモニアに見出された新たな可能性
新エネルギーとして期待が高まるアンモニア
現在、アンモニアの約8割は肥料用途に利用されていますが、残りの約2割は化学製品の基礎原料として利用されています。
たとえば、メラミン樹脂や合成繊維のナイロンなど、私たちの生活に身近な化学製品の原料として活用されています。
世界で年間約2億トン生産されているアンモニアは、目立つ存在ではないものの、食料生産から産業まで、私たちの暮らしを支える重要な化学物質です。
そして近年、アンモニアにはさらに新たな役割が期待されています。
アンモニア(NH₃)は炭素(C)を含まない化合物であるため、燃焼時に二酸化炭素(CO₂)を排出しません。
そのため、脱炭素社会を実現するための次世代エネルギーとして、実用化が検討されています。
アンモニア発電の仕組みは、燃焼してタービンを回し、電気に変えるという、石炭などを使用する火力発電と同じものです。
アンモニア自体は燃えにくい物質なので専用のバーナーが必要にはなりますが、既存の設備を活用することができます。
さらに、アンモニアはすでに生産・運搬・貯蔵などのサプライチェーンが確立されていることも、次世代エネルギーとしての大きな強みです。
アンモニア発電実用化に必要なブレイクスルー
多くのエネルギーがそうであるように、アンモニアも万能なエネルギーというわけではありません。
燃焼時のNOx対策、大規模利用に向けた供給体制の整備など、実用化に向けて解決すべき課題も残されています。
さらに、100年以上にわたって使用されているハーバー・ボッシュ法は、大量の化石燃料が必要で、製造過程において多くのCO₂を排出します。
大量のアンモニアを脱炭素化しながら製造するために、さかんに研究が進められているのが、ハーバー・ボッシュ法に代わる新たなアンモニアの合成方法です。
その一つが、東京大学の西林仁昭教授らの研究グループによって開発された、モリブデン触媒を用いたアンモニア合成法です。
2019年に世界で初めてアンモニアを窒素ガスと水から常温・常圧で、大量かつ高速に合成することに成功し、世界から注目を集めた技術です。

出所)科学技術振興機構「画期的なアンモニア合成法」
https://www.jst.go.jp/seika/bt2020-04.html
自然界でおこなわれているアンモニア生成の仕組みをヒントに開発されたこの合成法では、なんとフラスコ内で混ぜるだけでアンモニアを製造することができます。
環境負荷の少ないアンモニア合成法が実用化されれば、脱炭素社会の実現を大きく後押しすることができるでしょう。
アンモニアの新エネルギーとしての立ち位置とは
近頃、「新エネルギー」や「次世代エネルギー」という言葉を耳にすることが増えました。
脱炭素社会を実現する新しいエネルギーとして、アンモニア以外にも、太陽光発電や風力発電、水素、合成燃料など、さまざまな技術が注目されています。
しかし、期待される新技術が次々と登場する一方で、主力電源になりうるエネルギーはどれかと問われると、はっきりとした答えは出せないのではないでしょうか。
実際、太陽光発電や風力発電は普及が進んでいるものの、天候による出力変動や設備の廃棄問題、地域との共生など、さまざまな課題が残されています。
また、水素エネルギーも脱炭素の切り札として注目されていますが、製造コストやサプライチェーンの構築など、社会実装には乗り越えるべき壁が残されています。
では、アンモニアは新エネルギーとして、どのような立ち位置にいるのでしょうか。
実はアンモニアは、ほかの新エネルギーとは少し異なる特徴を持ち、社会のエネルギー転換を支える存在としても期待されています。
それが、水素を輸送・貯蔵する「エネルギーキャリア」としての役割です。
アンモニアはNH₃という化学式で表されるように水素を含む化合物であるため、水素をアンモニアに変換することで効率よく運ぶことができます。
輸送や貯蔵に課題を抱える水素の社会実装を実現する技術として、研究が進められています。
また、アンモニアは、石炭火力に混ぜて燃やすことで、既存の火力発電設備の脱炭素化を進められるというメリットもあります。
石炭火力発電にアンモニアを20%混焼する実証実験も進められており、CO₂排出量が削減できることが確認されています。
新しいエネルギーを社会に普及させるには、技術そのものだけでなく、それを支える仕組みやインフラも重要です。
その点でアンモニアは、現在のエネルギーシステムを活かしながら脱炭素化を進められる、現実的な選択肢の一つといえるでしょう。
アンモニアは再び世界を変えることはできるのか
アンモニアは、長い間人類の食料生産や産業を支えてきた歴史があり、すでに製造方法や輸送技術が確立されています。
そのため、「次世代エネルギーを”早期に”社会に実装する」という観点においては、他の次世代エネルギーよりも少しだけリードしているのかもしれません。
さらに、水素社会の実現を後押しする、エネルギーキャリアとしての役割も期待されています。
かつて「空気からパンを作った」アンモニアは、今度は「空気からエネルギーをつくる」存在になることができるのでしょうか。


