イラン情勢の緊迫化を受け、化学業界への影響が徐々に表面化してきました。
物流の停滞やコストの急騰を背景に、化学の現場では原材料の確保や生産計画の見直し、さらには価格転嫁交渉に追われているのではないでしょうか。供給不足と値上げの玉突きが、今後もさまざまな分野に波及すると考えられます。
発端となったのは、ホルムズ海峡の事実上の封鎖です。現在も海上輸送は大きく制限され、中東からの原油やナフサの輸入は大幅に減少しています。国内ではエチレン設備の減産や稼働延期が相次ぎ、短中期の応急処置をどのように進めるかが課題となっています。
なぜここまで影響が広がったのでしょうか。あらかじめ対策を講じることはできなかったのか。実はここから、リスク管理の難しさが浮かび上がってきます。
備えがなかったわけではない
今回のような事態に対して、何の備えもしてこなかったわけではありません。
第一次石油危機のとき、日本の石油備蓄は主に民間ベースで、国家備蓄はまだなく、その結果、社会全体が混乱する事態を経験しました。こうした教訓を踏まえて、1975年に石油備蓄法で民間備蓄を義務化し、1978年には国家備蓄が開始されました。
その積み上げの結果、日本は合計200日以上の石油備蓄を持って事態に向き合えており、社会も冷静に対応できています。過去の教訓が生きているといえそうです。
一方で、中東への依存の高さについては課題が残りました。
依然として高い中東依存度
資源エネルギー庁の「エネルギー白書」によると、日本の原油輸入に占める中東依存度は、1967年度には91.2%でした。現在とほとんど変わらない水準です。
その後、中国やインドネシアからの輸入が増えたことで、1987年度には67.9%まで低下しています。日本はオイルショックの経験を踏まえ、輸入先の多角化を進めていたのです。
しかし、その後中国や東南アジア諸国からの輸入が減少に転じ、日本の中東依存度は再び上昇。2009年度には89.5%に達し、2023年度には94.7%と、一度下がった中東依存度がオイルショック前よりも高くなっています。
なぜ、再び中東依存が高まってしまったのでしょうか。その一つの理由として、「あまりにも効率的過ぎた」ことが挙げられます。
中東の石油資源は、地表近くにある大規模油田から比較的容易に生産できるためコスト面で優位性があり、まとまった量を安定的に確保できる点も魅力です。加えて、日本の製油所・エチレン設備は長年にわたり中東産原油を使いやすい形で発達してきました。
つまり生産活動を効率よく回すうえで、中東原油はきわめて合理的な選択だったのです。中東依存によるリスクを差し引いてもなお、平時においては十分な優位性があったといえます。
効率性と強靭性
この構図は、原油やナフサに限った話ではありません。サプライチェーンにおいて、強靭性よりも効率性が重視される傾向は、かねてより指摘されてきました。
例えば、調達先や生産拠点を特定の地域や企業に集中させることや、在庫をできるだけ圧縮することは、コスト競争力の向上につながります。強靭性には劣るものの、企業からみればいつ起きるかわからない有事への備えよりも、平時の競争力の維持・向上を優先するのは、自然なことかもしれません。
一方、予期せぬかたちでサプライチェーンが寸断されると、その脆弱さが表面化します。今回のホルムズ海峡の一件も、効率性を追求してきたサプライチェーンの弱点が露呈したといえるかもしれません。
したがって今後は、無駄を削減した「ジャストインタイム」から、万が一に備えた「ジャストインケース」への転換が求められる場面も増えていきそうです。
ただし、話はそんなに単純ではなく、サプライチェーンの強靭化は一筋縄ではいかないものです。
リスク管理の難しさ
経済産業省が示すように、効率性と強靭性は多くの場合、トレードオフの関係にあります。
もし強靭性を高めようとして、生産・物流拠点や調達先の地理的分散を進めると、これらはコスト増につながります。さらに、従来のやり方を変えることで、品質や納期を維持できるのかという不安も出てきます。
将来のリスクに備えるために、今この瞬間の競争で負けるわけにはいかない。顧客からの信頼を損なうわけにもいかない。こういったジレンマが、強靭化を難しくしています。
加えてリスクというものは、現実に起きない限り、その重大さが見えにくいもの。これは歯の定期検診と似ていて、何も見つからなければ、ただの出費のように思えるかもしれません。しかし、ひとたび虫歯を見逃せば、検診を怠ったことを強く後悔します。
つまり、リスクを適切に見積もる難しさと、効率性とのバランスの難しさが重なり、平時においては「備えにコストをかける合理性」を説明しにくい構造があるのです。
発生確率は低くても、ひとたび起きれば非常に大きな衝撃を与えるリスクは、しばしば「ブラックスワン」と呼ばれます。今回のイラン情勢の悪化もそうですが、起きる前には軽視されやすく、起きた後になってから「あのとき備えるべきだった」と語られる。そこにリスク管理の難しさがあります。
リスク管理とリス
では、こうしたリスクとどう向き合えばよいのでしょうか。
大切なのは、効率性を大きく損なわない範囲で、少しずつ冗長性を持たせることだそうです。供給先の分散、在庫水準の見直しなど、平時には余分に見えるコストについて、将来の損失を避けるための投資として位置づけられるかどうかが問われています。
そしてもう一つ重要なのは、その「余分」を株主や市場がどう理解するかです。単なるコストではなく、事業継続力や供給責任を守るための投資なのだと、丁寧に説明していく姿勢も求められます。
こうした余分について理解するうえで、リスの貯食行動が参考になるかもしれません。
リスには「貯食」という特有の行動があります。食べものが少なくなる時期に備えて秋のうちに木の実を拾い、他の生きものに取られないように、土のなかや木の陰などに隠しておく行動のことです。
木の実は一か所に集めておくほうが効率的ですが、分散して貯蔵するリスも存在します。その結果、貯蔵した一部の木の実の場所を忘れてしまうこともあるそうです。一見すると無駄の多い行動にも思えますが、貯蔵場所が見つかって全ての木の実が盗まれるリスクを減らす、将来の不確実性に備えた合理的な行動だとされています。
企業のサプライチェーンも同様に、平時においては無駄に見える行動が、非常時には組織全体を守ると考えられます。個別最適ではなく、全体最適の視点で備えを組み込めるかが、これからの競争力を左右していくのではないでしょうか。
なお、リスが忘れた木の実は、結果として新たな植物の発芽につながるそうです。平時には少し余分に見える備えは、その先の競争力を育てる種まきになるのかもしれません。
今回のイラン情勢は、その難しさと必要性を、化学業界に改めて突きつけているように思います。

